庭に四季の反映を強く求め、それを「眺める」ことに庭の最大の意義を見出すのは、どうも日本人特有の庭園観であるようだ。いかに私的に囲われていようと、また人の手が加えられていようと、日本人が庭に求めるのは自然のミニチュアであり、その自然志向は石を山に、砂を水に見立てた枯山水のような屈折した操作を含む庭まで一貫している。これは結局、自然を克服すべき対象としてではなく、親和的な環境としてとらえる日本的自然観に由来するもので、むろんぼくの雑木林好みもその影響下にあると言えるだろう。
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こうした日本的庭園観を如実に語っているのは平安時代に書かれた造園書の古典『作庭記』であり、その中には自然と庭つくりとの対応が「乞はんに従ふ」という一句に凝縮されている。これはつまり、自然の地形や石はあるべき形を要求してくるので、人はそれを読み取って庭をつくればよい、という考え方であり、ここには人間か独自の空間を創りだすという、人工への志向はまったく見られない。これに対して日本以外の国々では、一般に庭を人工的に整え創り出される空間と考える傾向が強い。一番極端なのはイスラム圏の例で、その“かぐわしい所”という意味のブスターンという言葉で呼ばれる庭園はきわめて幾何学的、抽象的に整えられ、人工の楽園のイメージを追求している。このように自然と離れた造園がなされるのは、砂漠と荒野が多いイスラム圏には庭園の模範とすべき美しい自然が存在しないからだと言われている。