無印良品にふさわしい商品かどうかを世界の一流品に詳しい人々が検証するアドバイザリーボードの仕組みをつくり、これはいまも継続している。メンバーは田中一光、小池一子、麹谷宏、杉本貴志、天野勝の各氏。しかし時代は変わっている。素材や品質を重視し、シンプルで洗練されたデザインの商品開発に努め、より安く販売するというシステムが、なぜ、消費者から見はなされていったのか。ユニクロと同じく日本では数少ない小売主導のSPAであり、設立以来、全面的にリスクを負って消費者志向のマーケティングを実践してきた企業である。だが、市場は厳しい。無印のライバルは、ギャップ、ユニクロ、コムサイズム、イトキソ、モノ・コムサ、ザラ、サザビー、ライトオン、ジョルダーノそれにスーパーのイオン、イトーヨーカ堂、ダイエーと続く。彼らがデフレ下に価格を武器に戦列に入ってくる。同じSPAでも無印は他社と異る品揃えではあるので全面攻撃は受けないはずだった。例えば同社の品揃えをみると生活雑貨が主体であり、ついで食品として衣服雑貨だ。しかも売上の五割は卸(ライセンス二三%、西友一一%、ファミリーマート八%、その他西武)などとなっている。
すでに二〇〇一年二月期で一七〇店舗、二〇〇二年二月で二四〇店。約倍近い増加だ。直営的は、主にJRの駅ビルやショッピングモールやショッピングセンターのテナントとして入居している。店名は「組曲」「ストールーストール」という。この他にも、百貨店でのインショップがある。これは消化仕入という形態なので卸ビジネスとして捉えている。これら小売ビジネスの年間売上は約一三六億にも達している(二〇〇二年二月期)。全売上の四%から七%のシェアに達している。一方、同じ百貨店取引を主体とする大手アパレルの「レナウン」はどうか。同社も表向きは小売ビジネスという表現はしていない。百貨店への卸とインショップ展開があり、これらは卸事業であるが、他に直営店を展開しているのである。主として郊外への出店だ。店名は「アーノルドパーマ」、「J・クルー」という店舗のニタイプ。これら店舗は二〇店前後。東京スタイルも、テスト段階であるが、卸のほかインショップ、それに直営店を五店舗を有している。これら大手の擬似SPA化に共通しているのは消費者志向のマーケティングではなく百貨店志向のマーケティングなのだ。だから買取りを進めることができない。コスト下げた分、品質の良いものを安く売ろうと工夫しないのだ。真に消費者志向のマーケティングをする企業であれば、これまでみてきたようにワールドやファイブフォックスさらにはユニクロのような買取りを積極的にすすめるはずだ。百貨店でも自主売場は百貨店側が完全に買取りで扱う商品だ。百貨店の改革が進まないことには大手アパレルもそのままである。この古い体質を温存しておくうちには現状は変わらないであろう。
汗臭く、線の太い個性的なマーロン・ブランドが、さまざまな意味で衝撃的デビューを飾った数年後に、今度は、これまた個性的だが、線の細い哀しげな新人ジェームズ・ディーンが、「エデンの東」(1953)でデビューする。ブロードウェイの「シー・ザンヤガー」という作品が認められ、抜擢されたのだ。彼の功績は、インフォーマルという言葉に代わって、カジュアルという言葉をアメリカに浸透させたことである。ジェームズ・ディーンは、ロン・ブランドの崇拝者だったそうだが、カジュアルという言葉を考えるにあたって、はなはだ興味深い話である。ほぼ時を同じくして撮られた両者の映画と、両者のカジュアル性が、根底で類似しているためだ(ただし、マーロン・ブランドは友人を通じて、ディーンは精神科医にかかるべきだといったと伝えられる)。ディーンのたった3本の映画の中で、もっともカジュアル性が強いものは、「エデンの東」と同じ年に撮られた「理由なき反抗」である。前掲した「波止場」同様、スーツスタイル(支配者あるいは権力者)対カジュアルスタイル(被支配者)という鮮明な構図が読み取れ、背景にアメリカそのものが浮き上がる。この映画の、カジュアルな被支配者は、ジム(ジェームスーディーン)と、彼の恋人ジュディ(ナタリー・ウッド)、さらにジムと対立するバズ(コリー・アレン)と、その仲間たちだ。権力者は、警察と、ジムおよびジュディの両親である。冒頭に、飲んだくれたジムが警察に保護される。スーツスタイルだが、すぐに上着を脱ぎタイを緩める。シャツの片方の襟が立つたままだ。Tシャツが喉もとに見える。スーツスタイルをリラックスさせるのは、ドレスダウンだが、ジェームズ・ディーンがそれをやると、一気にカジュアルウェアに変身する。そこが彼の特徴で、例えばハリソンーフオードが同様なことを試みても、ドレスダウンで終わってしまう。つまり、そこがディーンという役者のカジュアル性なのである。警察は制服の警官と、私服(スーツスタイル)の警官だらけで、そこへ父親がジムを迎えにくる。ボウタイとダークスーツという姿で、これも象徴的である。監督のニコラス・レイは、イントロ部分の、ものの10分もたたぬうちに、権力組のスーツスタイルと、被支配者であるカジュアル組を対置させた。アメリカ映画は、この手の操作に長けている。